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 日置吉田流弓術(へきよしだりゅうきゅうじゅつ)

日本の弓道史において重要な人物を多く輩出し、近代弓術確立の場となった竜王町。
現在の雪野山付近には、代々の弓の名手たちにまつわる遺跡が多く残っています。

室町中期までの弓術は、武田・小笠原流などの「古流」といわれる流儀が主流でしたが、 これは技そのものよりも、弓馬諸式の儀礼的故実様式として大成されたものでした。

しかし戦乱の世となり、もっと実戦的な威力を示す弓術の必要性を感じ、新しい射術の改良工夫を行ったのが日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)でした。 彼は愛田村(現在の三重県伊賀町)生まれ、あるいは大和国(奈良県)出身とも言われ、若いころから弓術に秀で、数々の勇名を馳せています。※日置弾正については架空の人物との説もあります。
彼は弓術を極めるために諸国を遊歴し、苦労の末、飛・中・貫の奥義を身につけ、彼独自の新射術を開発しました。

さて、近江の國、蒲生郡河森・川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏は、近江源氏・六角佐々木氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い一族でした。 その十一代目の吉田出雲守重賢(よしだいずものかみしげかた)(将軍足利義晴弓術指南役)について、次のような伝説が残っています。

吉田重賢が生まれる前のこと。 彼の母親は、彼が生まれるとき、三日月が自分の胸に入っていく夢を見ました。 三日月の形からの暗示か、彼女は「この子はきっと弓道の名誉を得るに違いない」と確信し、 重賢の弓術修行にたいへん熱心でした。母の思ったとおり、重賢は年若いうちから才能を発揮し、その技は妙域に達したそうです。

やがて彼が壮年になって、吉田八幡宮に参籠したときのこと、満願の暁に白髪の老人から一本の矢を与えられる夢を見ます。 不思議に思いつつもさらに修行を積んでいると、その翌年、齢五十余りの老人が突然現れ、重賢に弓術の奥義をことごとく伝授しました。
この老人が日置弾正(へきだんじょう) であると言われています。
こうして重賢と、その嫡子の重政(しげまさ)は、彼のもとで日夜親しく従学し、重賢は、その教えに自分なりの工夫を加え、ついに「日置吉田流」(へきよしだりゅう)という、現在、「日置流」と呼ばれる流派をを完成させます。この流儀は、儀礼的故実様式の「古流」に対して「新派」と呼ばれ、以後近代弓術の基礎として多くの弓の名手を輩出し発展していきました。また重賢は、日置弾正正次なる人物を自分の上に創造し、弓術の全ての奥義を伝授したとすることにより「日置流」流儀の重み付けを図ったとも言われています。

重賢の子、重政は父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)の弓の師範を務めるなどすばらしい腕の持ち主でした。しかしこの「日置吉田流弓術」「日置流」は、血統による一子相伝もしくは後継者を一人に限定する唯授一人(ゆじゅいちにん)の精神を貫くことを基本としていたため、ひとつの対立が起きました。

重政の門人で主家の佐々木義賢は、どうしてもその秘伝を伝授してほしいと重政に迫りました。しかし重政は、いくら主家であっても、他家へ渡すことはできないと、一子相伝の掟を守り、それを許さなかったため、二人の間には不和が生まれ、一時重政は越前一条谷に引きこもってしまいました。結局数年後、朝倉義景(あさくらよしかげ)のとりなしにより、二人は養子縁組を結び、佐々木義賢は日置吉田流の奥義一切を受け継ぎましたが、後に、佐々木義賢は重政の息子の重高を自分の養子として秘伝を返し、吉田家の領地の加増を行ったと伝えられています。

この対立が元となり、「日置吉田流弓術」「日置流」は、「出雲派」「雪荷派」に分立することになりました。「出雲派」と呼ばれる、吉田重政から佐々木義賢、そして吉田重高 へという流れは、その後も阿部藩の庇護を受けて明治維新まで発展します。
一方、「雪荷派」は、重政と佐々木義賢の対立から危機感を感じた重賢が、重政の四男の重勝(しげかつ)「雪荷(せっか)」に直接真伝を伝授したことから、 本流とは違った流派として生まれ、蒲生氏郷(がもううじさと)・秀郷親子(ひでさとおやこ)、森刑部(もりぎょうぶ)、羽柴秀長(はしばひでなが)、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、 細川幽斎(ほそかわゆうさい)などの高弟を輩出しました。吉田流の技術的な要素は雪荷派に多く伝えられているとも言われています。
その後、この二つの流派からさらに分立が進み、総じて日置六派もしく七派と呼ばれるようになりました。

本流はどこなのかという点については諸説がありますが、いずれにしても吉田家という一族が、何代にもわたり弓道で名を挙げたことは事実であり、たいへん希有なことだといえるでしょう。

鉄砲の伝来により、武器としての弓や矢の役割は衰退していきますが、 武士が指導力を持っていた江戸時代には、弓は士気鼓舞のための武士教育に用いられるようになりました。 そして弓の技術を確認するだけでなく武士の力を民衆に誇示するため、京や江戸で三十三間堂の通し矢が盛んになりました。 中でも出雲派の流れをくむ大蔵派の創始者、吉田茂氏(よしだしげうじ)は、前後七回にわたってその技を試み、次々に自己の記録を更新し、天下一の名声を独占しました。
明治維新以後弓術は、西洋文化を重んじる気風に押されて一時衰退の色を見せましたが、現在では、学校体育にまで取り入れられ、男性のみならず、女性にも愛弓者が増えつつあります。 弓道はただ目標に射当てるだけでなく、何事にも動揺することのない精神性を身につけるスポーツとなりましたが、その根幹に、現代の弓道の技術に決定的な影響を与えた日置吉田流という大きな流れがあるのです。

現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)一帯は、川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」(よしだいづものかみしげたかきょたくあと)」と江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。 また東南に位置する葛巻(かずらまき)は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています。 南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷派(せっか)の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。 そのほか、弓に関する地名では、「弓削(ゆげ)」という字が残っています。

伝統行事では、弓道発祥の地であることが伺える、竜王町七里の石部神社の「弓始め神事」と「弓納め神事」が現在も受け継がれています。
お問い合わせ:竜王町観光協会 TEL:0748-58-3715 有線:58-3715
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