義経年表と全国の義経ゆかりの物語や伝説
義経は、平家滅亡に向けて、数々の戦功を立てますが、兄頼朝に認めてもらえず追われて最期は非業の死を遂げると言う悲劇の英雄ですが、このことが人々の同情を集め、多くの伝説や物語がつくらました。これを判官物(ほうがんもの)といいます。
全国には多くの義経に関わるまちがあり、様々な義経の物語が現在も語り継がれております。
京都(1159年)牛若丸誕生 牛若丸生まれる。源氏の総領である源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれた。母は、義朝の愛妾で九条院の雑仕(ぞうし)であった常盤御前(ときわごぜん)。
吉野(奈良県)牛若丸1歳 父義朝が平治の乱(1159年12月)で平清盛(たいらのきよもり)に敗れた際、母常磐(ときわ)は親戚を頼って、激しく雪が降る大和路を吉野(奈良県吉野)へ落ちていった。
両手に今若、乙若の幼子を引き、胸には生まれたばかりの赤子(後の義経)を抱いて。この時常盤21歳。
六波羅(京都)牛若丸1歳〜7歳 ところが、母親を質に取られたことを知った常磐は、3子を連れて六波羅の清盛に自訴(じそ)。母親と子供の命乞いのため清盛の妾の一人になったという。常磐は清盛との間に女子を儲け、さらに大蔵卿藤原長成(おおくらきょうふじわらながなり)に嫁いで男子を産む。常盤御前(ときわごぜん)は絶世の美女であったといわれている。
鞍馬山(京都市左京区)
遮那王7歳
鞍馬山の寺に預けられ遮那王(しゃなおう)と名乗る。(母常盤が嫁した大蔵卿藤原(一条)長成が、義経の扶持(ふじ)を負担)
自分が源氏の子供と知り、天狗を相手に剣術の修行をした、と言う話がある。
五条の橋(京都市東山区)
遮那王11歳
中国兵法の古典「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を読み兵法の極意を得る。
五条の橋(京都)で武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)に襲われるが、反対に討ち負かし、弁慶を家来にした。
鞍馬山出立(京都市左京区)
遮那王16歳
金売り吉次に連れられて、奥州藤原秀衡の元へ向かう為、鞍馬山を出立。
母常盤が嫁した藤原長成の従兄弟の藤原基成(もとなり)は後白河法皇(ごしらかわほうおう)の重臣であり、奥州藤原秀衡の妻に自分の娘を嫁がせている。
奥州藤原氏の政権の中枢に奥深く入り込んでおり、この縁で義経は奥州藤原氏と関係を持ったのであろうか。
鏡の宿で元服
(滋賀県竜王町鏡)
源九郎義経16歳
鞍馬出立第1日目、鏡の宿(滋賀県竜王町)に着き、自分の前髪を落として「源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)」として元服する。
池を鏡がわりに姿を映し水を汲んだとされる元服池、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子掛け松等が今も残る。
謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)に鏡の宿での元服の様子が表されている。
平泉(岩手県平泉町)
義経21歳
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のところで成長する。兄の頼朝(よりとも)が、平氏を討つために兵を上げたことを知ると、平泉を出て、頼朝のところに向かう。
黄瀬川宿(静岡県清水町)
義経21歳
義経は兄・頼朝とはじめて会い、互いに懐旧の涙を流し平氏を討つことを誓う「八幡神社(対面石)」
鎌倉(神奈川県鎌倉市)
義経25歳
京都で乱暴を働いている木曽義仲こと源義仲(みなもとのよしなか)を討つため、軍勢を率いて鎌倉を出発する。
宇治川の戦い(京都府宇治市)
義経26歳
義経は、先に敵の陣地に攻め入った勇気のある者は、頼朝に報告すると言ったため、武将達は先を争って宇治川を渡り、敵陣に攻め入って義仲を滅ぼす。
これを、宇治川の先陣という。
一ノ谷の戦い(兵庫県神戸市)
義経26歳
一ノ谷の戦い(1184)で義経は、険しい崖の上から馬でかけ下りて、平氏の陣地に攻め入る。驚いた平氏は船で屋島へ逃げる。鵯越え(ひよどりごえ)の逆落し(さかおとし)という。
京都
義経27歳
義経は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)から官位を貰う。一ノ谷の戦いから1年後、頼朝の命令で瀬戸内海にいる平氏を討つため、出陣する。
屋島の戦い(香川県高松市)
義経27歳
1185年海からの攻撃に備えていた平氏を、突然、陸から攻めて破る。竿(さお)に扇を掲げた平氏の小船が、近づいて来た。そこで、源氏の武士で弓の名手の那須与一(なすのよいち)が、馬に乗って海に入り、見事に扇を射落とし名をあげたと言う話がある。
壇之浦の戦い(山口県下関市)
義経27歳
源氏・平家の雌雄を決した最後の合戦「壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい)」。義経は、潮の流れをよく考えて戦い、平氏に勝つ。
義経は、船から船へと飛び移り、斬りかかって来る敵をかわした、と言う話がある。清盛の妻、二位尼(にいのあま)は安徳天皇を抱いて海に身を投じた。
腰越(鎌倉市)義経27歳 義経は、清盛の子、平宗盛(たいらのむねもり)父子を捕虜として鎌倉に向かう。しかし、頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出す。そのため義経は鎌倉に入れず、腰越(こしごえ)で大江広元に宛てて無実の罪を訴えた書状を書くが、許してもらえず京都に引き返す。世にこれを腰越状(こしごえじょう)という。
平家終焉の地
(滋賀県野洲町篠原)
義経27歳
京都に引き返す途中、捕虜の平宗盛(たいらのむねもり)父子の首を、鏡の宿場(滋賀県竜王町)を通り過ぎた所にある篠原(しのはら)(滋賀県野洲町)で刎ねる。
その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」があり、胴だけ残されたので宗盛塚も建てられいる。
義経自らの元服した「鏡の宿」を汚すのを避けて通り過ぎたと伝えられる。(「不帰の池」かえらずの池とも云う)
平家終焉(しゅうえん)の地。
京都
義経27歳
頼朝の命令で、堀川にあった義経の館が襲われる。後白河法皇は、はじめ義経に頼朝を討つ命令を出す。しかし、頼朝の家来が兵を連れて京都に来ると、今度は頼朝に義経を討つ命令を出す。
大物浦(尼崎市大物町)
義経28歳
義経は頼朝に追われ、九州へ逃げるため船を出す。しかし、暴風雨で難破し、住吉浦に漂着する。その後、山伏姿で、吉野山や京都周辺を逃げ廻る。
大物浦(だいもつのうら)
安宅関(石川県小松市)
義経28歳
山伏姿に扮した義経は、関所を守る役人に、義経だと見破られそうになるが、弁慶の知恵により無事に難をのがれ関所を通ることができた、という話がある。
安宅関(あたかのせき)
義経最期の地
(岩手県西磐井郡平泉町)
義経31歳
藤原泰衡は頼朝に味方して、中尊寺(ちゅうそんじ)方面に抜ける「高館」(たかだち)にあった義経の館を襲う。急襲を受けた義経は、奮戦虚しく館に火を放ち、妻子とともに持仏堂(じぶつどう)で自害する。
吉野の非史(奈良県吉野町) 義経が兄源頼朝の追手を逃れて愛妾「静御前(しずかごぜん)」や供のものと身を隠したのは雪降る吉野の山中。義経と別れた静御前が追手に捕らわれられ請われて舞を舞ったといわれる舞塚がある(勝手神社)
奥州合戦(福島県国見町) 「阿津賀志山防塁」(あつかしやまぼうるい )義経を大将とする藤原泰衡(やすひら)が奥州征伐を目指す源頼朝軍を迎え討つための防備施設(義経まつり 平成15年9月23日開催 国見町商工会青年部主催)
弁慶の立往生(岩手県衣川村) 弁慶は何本もの矢が体に刺さったまま、館の前に立ちはだかって死に、義経を守った、という話がある。通称金売り吉次(義経を鞍馬から脱出させ、鏡の宿で元服に立ち会った)の屋敷跡がある。
義経北国伝説
(北海道平取町)
義経が文治5年、平泉で自決したとなっているが、蝦夷地(えぞち)へ渡り日高ピラウトゥリ(平取)に来て、アイヌ民族を守り、判官(ほうがん)カムイと尊称されたのち、家臣らとともに大陸に渡ったとされている。
(義経神社・義経資料館)
義経の首塚
(神奈川県藤沢市)
(宮城県栗駒町)
義経の首は腰越で首実験の後捨てられたが、義経を愛し哀れんだ人々が首を拾い、塚に埋め霊を「白旗神社」として祀ったと伝えられている。
判官森源義経御葬礼所(ほうがんもりみなもとのよしつねごそうれいしょ)
静御前
(奈良県吉野町)
(神奈川県鎌倉市)
吉野で頼朝に捕まった静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、義経を思いながら舞を舞う。そのため頼朝に殺されそうになるが、頼朝の妻・政子に命を救われる。
静御前堂(福島県郡山市) 源義経を慕って奥州へ下り、悲しみのあまり池に身を投じた静御前の御霊を祀ったお堂、クギを一本も使わずに天明年間に改装されたもの。
(兵庫県津名市) 静御前の墓
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